春から積極的にデジタルソフトを使って制作しており、なんとなく描き方が固まってきたので一度まとめてみようと思います。
春から描いてる作品の中でも、トレース過程を挟んだイラストをピックアップしました。
ただ、正直トレースって制作業界であまり良いイメージが無いです。
去年一年古典絵画の模写を経て模写やトレースも良いなと思ったので、私の考えをここに記しておきます。
まず最初に描いておきたいのが、模写とトレースの違いです。
ざっくり言うと、模写は目で見て描き写し、トレースは透かして描き写すといった感じでしょうか。
ただ、私が去年までやっていた古典絵画の模写も、薄い和紙を透かして描き写してるから実質トレースとあんま変わらないと思います。下に元の絵を引いて、線を描く度紙を持ち上げて下の絵を見て写しての繰り返し作業でした。先生の言葉を借りるなら「残像を見て描く」ですね。
これは友人の制作中の写真ですが、恐ろしい程細かいですよね。
模写もトレースもどちらも「写す」という行為ですが、私達はコピペをしているのではないのです。
どこから描いているのか、この線はどのぐらいの細さや濃さで描いているのか、作者はどんなことを考えながら描いていたのだろうと制作しながら考えるのです。それが写すことから得る学びに繋がります。
しかし更に重要なのが、自分がその作品をどう表現するかというポイントです。
作品を選んだ時、自分がその作品をどう感じたのか、どこが魅力的だと思ったのか、それを写しながらも更に表現することで、魅力的で説得力のある作品になります。
題材にするものにもよりますが、模写やトレースも簡単ではないのです。
技術的な面として、物体や物に対する理解、絵画基礎が無ければ説得力のあるものにはならないでしょう。それに、そもそも根気や体力が無ければまず完成させることもできません。
なので、どんな形であれ本人が手を加えたものは本人の作品と言えるのではないかと思います。
しかし、オリジナルを作る人は真似して描くよりも何倍の苦労をして制作をしています。
写すという行為自体が問題としてよく取り上げられますが、私としてはリスペクトの欠如が問題なのではないかと考えます。オリジナルの製作者に対する敬意、それを作品や行動で示すことができていないから問題に発展するように思います。
著作権的な問題もありますが、私が公の場で語れる程司法に詳しくないことと、そもそも司法は問題を解決する手段の一つであると考えることから今回は割愛させて頂きます。
ここでは一次創作のものをオリジナルと呼んでいますが、そもそもこの世に絶対的なオリジナルの制作物なんていくつあるのでしょうか。目の前にある花を描けばそれは厳密には二次創作でありオリジナルは目の前の花のはずです。なのでどれがオリジナルかどうかとか言いだしたらキリがないと思っています。世の中調べたら絶対被ってるものなんてたくさんあるでしょう。
だからこそ、尊敬が必要なのではないでしょうか。私達にんげんは結局のところ万物を通して心を見ているのではないかと思います。
このことをブログに描こうと思ったのは、昨日ふと先生の言葉を思い出したことが理由です。
まだ大学に入って間もない頃の、若い先生の言葉。
「結局のところ、何だっていいと思いますよ。昔の先生方はあの描き方は~とか言っていますけど。
色塗りと言われるような描き方でも、目の前のことを写真のように写す描き方でも。
それを極めれば強い説得力に繋がるし、それは貴方にしかできない。
そして最終的に、あなたの作品を見た誰かが感動すればいいじゃないかなと僕は思います。」
みんなで山に登って拾ってきたものを再現し工作する授業をした時の、ちょび髭の先生。
「今日はみんなに偽物を作ってもらいました。
でも、みんなが一生懸命作ったものは、どれもとても魅力的です。
本物とは違いますが、それ以上の魅力を発揮している作品もあります。
本物と偽物の見分けが付かないような作品もありますね。
偽物には偽物の魅力があり、それは価値になります。私達は魅力的な嘘を作るのです。」
先生の言葉って、ふとした時に思い出して支えになることもあるから、やはり強いですね。
この世界のシステム的に、どれだけ頑張っても、全く同じものなんてできないんじゃないかと思います。機械だったら可能になる部分もあるかもしれませんが、彼らだって永遠じゃないですよね。
私は画一されても絶対的に生み出される違いこそが個性であり、そこがにんげんの愛おしい部分なのだろうと考えます。
オリジナルを作る人達は0を1にすることができるタイプ。
そしてその人達が作った1を10にするタイプが発展を促し、
10を10のままキープすることができるタイプがいるお陰で、世界が大きく崩れることがない。
私は1から10ができるタイプ、完全オリジナルより何かを元にしたものをアレンジするのが得意なんだと最近気づきました。
そういう意味でも、こういう制作が向ているのかもしれないと思うのでした。