気にするなと言われても

 

こんばんは。

私は相変わらず元気でやっているのですが、最近Twitterを呟くことが少なくなりました。

そうは言っても、ゲーム用のアカウントではわちゃわちゃしてるので、うるさめの私に興味がある方はそちらを是非。ふろーらるんという名前です。

 

SNSは元々好きだったのですが、こう引き籠もってばかりだと「片手間に見るもの」だったのだなぁと実感しますね。

 

情報が多くなってきた時代だからこそ、最近は情報を捨てること・見ないことに焦点が当たった話が多いように感じます。

敢えてSNSから距離を置くという人も珍しくないですね。このことをデジタルデトックスと言うそうです。デトックスは解毒という意味らしいですよ。

 

これらの現象を批判する訳ではないのですが、私は違和感を覚えたのです。

 

情報の使い方は大きく分けて3つでしょう。

ひとつ、情報を受信する。

ふたつ、情報を分析する。

みっつ、情報を発信する。

 

2つ目の分析は、情報の内容の解釈や活用を意味していますが、今回のテーマとは少し離れるので省略します。

 

SNSの主たる役割は情報の発信と受信です。誰とでも気軽にできるとこと頻繁に更新されるところがポイントですね。

 

私が違和感を感じた原因は、情報を受信するところにあります。先程の話に戻りますが、デジタルデトックスの具体的な行動としては「SNSをしない」「ミュート」「ブロック」があげられるでしょう。これらはつまり、情報の受信拒否です。

 

「見たくない情報だけ見ないで、見たい情報だけ見る」ことに違和感を感じました。

 

生物的に考えて、何かしらの原因があって逃げるという選択肢は大いにアリだと思います。

しかし、逃げとは根本的な解決にはならず端的に言ってその場しのぎです。

 

世の中では「SNS疲れ」だと言われていますが、きっかけになったものがSNSなだけであってその人自身に問題があるのではないと、私は思いました。

クサイものには蓋をすると同じ原理です。

情報自体に正誤があるとは言え、情報が存在しているという事実は変わりません。

知ってても知らなくても、亡くなった誰かが生き返ることは、事件が起きる前の日に戻ることはできません。

 

どんな情報も受け入れられるほど私達にんげんの精神は強くないということでしょう。

文明はにんげんの許容量を超えつつあると、改めて痛感しました。

 

 

 

私も実は周りが気になるタイプなので、こんなこと書いておきながらも人のこと言えないんです。

ブロックもミュートも、することがあります。よっぽどじゃないとしないけど…

今まではなんとなく嫌だなと思っていただけで、上手く言葉にはできなかったのですが、今回少しすっきりしたことでまた自分と向き合えたように思います。

 

気にするなと言われても、気にしないなんて無理ですよ。だってそういう性格ですから。

それでいいんだと、私は思います。ただ、何事もバランスが大事です。

気にしない方法を考えるより、これからの世界と自分がどうやって向き合う方法を考えるのがベストだと思うのでした。