同い年の存在

 

今日は、友達とクトゥルフ神話TRPGセッションをしました。

殆ど毎日動画見たりルールブック眺めてたりで勉強も準備も頑張っているのですが、やはり実際にやるのはなかなか難しいですね。でも少しづつコツは見えてきました。

遊びと言ってしまえばそれまでですが、基本的にゲームに必要なのは頭。GMはいうなれば進行役ですし、ある意味プレイヤー以上に想像力や描写力が求められます。まるで合コンの幹事みたいだなって思うんですけど、非常にやりがいを感じています。ただ、長いし疲れるしぐだるし、参加プレイヤーはゲームを楽しんでくれているだろうかと常々不安です。絵が得意なメンバーとセッションすると、みんなわざわざ毎回立ち絵を描いてきてくれて、しかも丁寧にセッション後もシーンのイラストを描いて送ってくれたりして、GMは幸せです…。

 

今回のメンバーは同じクラスの子達でした。

休み時間に世間話をしました。

 

「実習どうなるんだろうね」

「卒展大丈夫かなぁ」

「就活どうだった?」

 

他愛ない世間話です。

正直私は、世間のこの状態の中「就活やるのもなぁ」とあまり前向きになれず制作に打ち込む日々でした。それが悪かったとは思いません。今まであまり継続的に絵を描けなかった私がこの期間にたくさんの絵を描けています。自分のやっていることが身についている感覚もあります。ただ、それを理由にバランスを取ろうとして避けている部分があるのも事実でした。

 

そんなごく普通な会話をしてる時は、ちょっと憂鬱でした。ちょっと卑屈な態度だったかもなって今になると思います。私は「事が終わってないのにわからない未来の心配なんて不毛だな」と考えていました。同級生達を否定するわけではありません。私とは違う別の方向とやり方で各々頑張っています、それはとても凄いことです。ただ未来がどうなるかわからないなんていつだって当たり前のことだし、考えたところで仕方がないのです。考えることをやめようという意味ではありませんが、不安に思ったところで不安が解消されることはない、それなら少しでも改善できることを考えようとか、前向きに考えようとか、そういう効率や合理性を求めてしまうのが私なのです。

 

休憩時間が終わってゲームを再開し、無事クリアして通話を終了しました。

 

少し時間が経って、私の中にふつふつと活力が沸いてきます。

何故でしょうか。「さて、自分も頑張らねば」と思ったのです。

 

何かに対する期待感、高揚感…京都に来た時の気持ちに似ています。

 

年齢の差なんて関係無いと頭では考えていますが、本能的にはそうでもないようです。

私は年上には甘えを、年下には劣等感を持ちがちです。

同期の付き合いというのは、距離感が難しくて苦手でした。考えが読めなかったり理解できないことが多く、それでいて衝突も珍しくないです。

 

ただそれも、どこまでも「対等な存在」だと認識しているからなのかもしれないと気付きました。

 

頑張っている姿を見て、腐ることなく前向きな気持ちになれる。

どうしようもなく、むかつくこともある。

なんとなくで一緒に日々を過ごす。

自分の力不足で、助けを求めることもある。

 

案外、自分にとって対等な存在というものは珍しいものではないでしょうか。

私達にんげんは何かを見切ることで生きています、中間の存在なんて扱いにくくて当然なのです。目上か目下で分けてしまうほうが、簡単です。生まれ育ってきた家族の中での立場の違いは明確ですし、同い年の集団でもヒエラルキーというものは形成されてしまいます。

 

対等な存在というのは、お互いの関係に努力がないと成立しないでしょう。他の関係にそれが必要無いという訳ではありませんが、対等な存在の努力というのは容易ではないということを言いたいのです。

 

私は恵まれてるのだと思いました。対等と思える存在がいる。友達とか仲間とか、私の中での定義が曖昧でよくわからない言葉よりもその考えは肌に馴染みました。

これを読んでいる貴方にも、思い当たる人はいますか?

 

さぁ、どんな風に今を過ごしたって時間は平等に流れていきます。

明日からもまた楽しく生きていきましょう。